ウェンディ&ピーターパン 感想

雑誌やラジオで「あまり考えすぎず童心に返って観てほしい」と裕翔くんから言われていたにもかかわらず、めちゃくちゃ深読みして観ていた。

以下、主観いっぱいの深読み感想です。

 

この深読みの結論(?)は「こどもでい続けるには強い意思が重要で、それは裕翔くんに通じるところがある」。このあとだらだらと話し続けてしまうけど終着点はこれです。

 

 

1.雷

2.薬

3.ピーターとフック

4.ピーターとミスター・ダーリング

5.「お母さん」

 


観劇にあたって、

『ピーター・パンとウェンディ J.M.バリー/作 石井桃子/訳(福音館書店)』(以下「原作」)

ケンジントン公園のピーター・パン  J.M.バリー/作 南條竹則/訳(光文社)』

を読んだ。 

 

 

1.雷

ピーターパンは鋭く重い雷鳴とともに登場する。

ケンジントン公園〜』の解説で、「ピーター・パン」の「パン」とはギリシア神話の神様だと述べられている。パンは、羊飼い、狩人、田舎のすべての住人の神であり、森や険しい山を住処としていたらしい。豊穣の象徴、天空の象徴。山羊の姿形。葦笛の発明者。パニックの語源。

ここでピーターの吹いていたハーモニカと繋がる!という興奮もありつつ、この部分を見るとなんとなく無邪気で明るいイメージのピーターが雷ととも厳かに登場していたのがわかる気がする。あと、フックが「お祈りでお前の名前を口にする奴もいなくなる」と言っていたのもやっぱりちょっと象徴的な存在なのかなと想像してしまう。

ケンジントン公園〜』の本編でも、ピーターは半分人間で半分鳥とされている。やっぱりちょっと人ならざるものという印象だ。

大人にならない少年って言われてみれば、超人的な、畏怖すら感じる存在だよなあ。

 

 

2.薬

薬に注目してみた。

舞台では

○ドクター・ジャイルズがトムのための薬をミセス・ダーリングに渡す

○トムがいなくなった後、その薬をミセス・ダーリングが病気でない他の3人へ飲ませる

○ピーターが「ネバーランドに薬もお母さんもいらない!」と叫ぶ→脇腹を痛めているピーターが薬(ウェンディがこども部屋から持ってきたもの)を手に取るも首を横に振りながら投げる

で出てくる。

原作では

○ナナ、ミスター・ダーリングがマイケルに薬を飲ませようとする

○ウェンディ(ロストボーイズのお母さんとして振る舞っている)がロストボーイズ(ウェンディのこどもとして振る舞っている)に薬を飲ませる

○フックがピーターに毒薬を飲ませようとする

あたりで出てきていた。

ここから、薬は大人からこどもへ与えられるものという印象。

原作にはこんな部分がある。

あなたが、これまで、人の心の地図をごらんになったことがあるかどうか、私は知りません。お医者さんは、時どき、あなたがたの心でない部分の地図をつくることがあります。そして、私たち自身の地図というものは、時には非常に面白く思えるものです。でも、お医者さんに子どもの心の地図を作らせてごらんなさい。手こずりますから。

薬は、大人がこどもへつくる地図と同じ、理屈で考えられたもの。こどもがつくる自分の心の地図であるネバーランドと対称の位置にあるものとして描かれているのかなと思った。

そして、薬と毒は紙一重であり、大人からこどもへの愛はこどもにとっての悲しみや憎しみとも紙一重になり得るのだと感じた。ピーターは大人から与えられるものについて愛とは違う側面を知っているんだろうな。だから本人に自覚はなくとも薬とお母さんを並べて述べるのかな。

 

 

3.ピーターとフック

永遠の時を生きる若いピーターと時間に追われる老いたフック、対比で描かれているのがおもしろかった。

ティンクとフックが対峙する場面、フックはめざまし時計のジジジジジジという音に怯えて逃げるけれどピーターはこともなげに時計を叩いて音を止める。

フックに不意打ちで脇腹を刺されるピーター。死を覚悟する。怯えた表情を一瞬見せるも、笑みを浮かべて「死ぬって素敵な冒険じゃないか!」。この場面、「死後も時間は続く、と永久不滅の時間を信じるピーター」と、「死という時間の終わり、時間の有限性を感じて恐ろしくなるピーター」が共存していそうだと感じた。

フックはピーターの命や若さや魅力が欲しいのではなく、時間が欲しいのだと言う。

「間違ったことをする時間、迷う時間、失敗してもそれを教訓にできると思える時間、すべてが順調だった頃、希望を持ってもよかった頃」(←必死に覚えたが多分ちょっと違う) が欲しいのだと。

自分は結局ピーターを殺せないのでは、と自覚した時にはもう人生の日が暮れそうになっていたフック。長い年月を無駄にしていたのだと後悔してももうやり直せない。時間がないから。

フックは迷うことも時間がある者の特権だと言っている。ウェンディとの出会いや別れの中で少なからず迷ったり悩んだりしているピーター。フックが寝ているピーターに「お前に悩みはないのか?」と声をかけるとう〜んと苦しそうに唸るピーター。ピーターは迷っている。そして、ピーターは迷った先にいつもこどもでいることを選択している。簡単なことではないだろう。迷う時間が無限にあるのって、大変だろう。

フックが死んだ後、静かにフックが消えた海を見つめ、そしてジッとウェンディを見つめるピーター。時間の有限性を目の前にして、ウェンディが大人になっていくことを受け入れた瞬間だったのかもしれない。

 

 

4.ピーターとミスター・ダーリング

ピーターとフックは対比だったけれど、ピーターとミスター・ダーリングは似ているというか、リンクする部分が多い印象。

〈前半〉母親は家にいるのが義務だと考えていたミスター・ダーリング。自分のために(静かでかわいい顔のウェンディとネバーランドで一緒にいたい!)そばにいてほしいピーター。

〈後半〉愛が理由で家にいてほしいと考え直すミスター・ダーリング。愛が理由でネバーランドから離れ家に帰るべきだと考えるピーター。

ウェンディを見送るピーターの表情が本当にすごい。涙が出る。切なくて優しくて強くて穏やかで孤独な表情。

帰ってしまうんだな。でも本当は心のどこかでわかっていた。ウェンディにとってはそれがいい、ウェンディが幸せな瞬間を見つけられてよかった。これからもウェンディは幸せな瞬間を見つけながら生きていけるだろう。それなら僕も幸せだ。ウェンディが幸せでいてくれれば僕も空を飛んでいられる。…は私の想像だけど、最後の最後、こども部屋の窓の外から何かを探すようにしているピーターはウェンディが幸せかどうかを見たかったのかな。

これからもウェンディが幸せでいるかを時折窓の外から確認して、それでピーターの幸せが続いていくのかもしれない。でもその一方ですぐウェンディのことは忘れて別のこどもと仲良くなって、いつかウェンディのこどもができたとしてその子を迎えにくる未来も想像できる。ミセス・ダーリングもピーターを思い出したように、ウェンディもそういう瞬間にピーターを思い出すのかな。

 

 

5.「お母さん」

○ピーター

ピーターはお母さんのことを信頼してはいない。自分のお母さんが幸せでいたことを喜ばしいと思いながらも自分の居場所はそこではないと思っている。ティンクに粉をかけられて少し苦しそうに眠っているときもお母さんの夢をみているのではないか。

ウェンディに対してはごっこ遊びの役のひとつとしてお母さんの役割を担わせたいと思っていたのかなと捉えてみた。ロストボーイズ(ピーター以外)ほどお母さんはこうあるべきとかお母さんにこれやってもらいたいというのがない。お母さんへの憧れがない、あくまでごっこ遊びのひとつの役という感じ。「女の子1人は男の子1000人分の価値がある」と言っていたように、ウェンディや女の子のことは型に押し込めずに尊重している印象がある。ウェンディにお母さんをやってもらいたいのも、ウェンディがネバーランドに馴染むように、仲間に入れるように、と思っていたからではないか。前半のピーターは「静かでかわいい顔のウェンディとネバーランドで一緒にいたい、好かれたい」、後半のピーターは「ウェンディに幸せになってほしい」が強かった気がした。だから終盤に船の上でウェンディへお母さん設定で話しかける場面も、前半と違ってちょっとぎこちない。

また、ピーターはウェンディに「お父さん」を任されて戸惑う。自分はこども役のつもりだったから。それでもネバーランドの秘密を教える場面でウェンディにお父さんという設定で話しかけたのは、ピーターをお父さんに任命したのがウェンディだったから、できるだけウェンディに寄り添った話の入り口にしたかったからではないか。(そもそもウェンディがお父さん役にピーターを指名したのも割とごっこ遊びのノリで、ロストボーイズのリーダー的存在だからなのとピーターのことが好きだな素敵だなと思ってたからかなと思っている。)

最後に「お父さんって、ただの家族ごっこだよね?」と聞いたのは、ごっこ遊び以上の感情が湧き出そうになったそれとない不安から自分に言い聞かせる目的もあったのかな。

 

○ウェンディ

原作と違い自分のことを「お母さん」だと思う瞬間がない。お母さんと言われても否定する。自分はお母さんではない、こどもでいたいと思いつつも、弟たちやさらには両親に対しても責任を感じている。責任感の強さはなんとなく原作と通じるところがある気がする。しかし最後には、トムを失った悲しみや必要以上の責任感から解放されてこどもとして空を飛ぶ。

そんなウェンディの葛藤を克服する重要な流れもありつつ、「トムが幸せでいるにはまず私たちが幸せにならなくちゃ」「ウェンディ・ダーリング、いつそんな大人になったの」というやり取りがあるように、気づきや体験を経て確実に大人へ成長していて、やはりそこから永遠にこどもでいようとするピーターとの違いも感じる。ピーターもその違いを感じて、ウェンディを見送ったのだろう。


ここで私は考えた。そもそも「まず私たちが幸せにならなくちゃ」の気づきを与えてくれたのはピーターなので、ピーターはウェンディの成長の先にいるのではないか。

もしかしたら、ピーターが「今ある状態を維持して"ずっとネバーランドで楽しく遊ぶ"という選択をし続けていること」がその他大勢のこどもと違うところなのかもしれない。周りが大人になっていったり人生の時間を終えたりする中でこどもでい続けることは、きっとかなり孤独だろう。それでもこどもでありたいという意思を誰よりも強く持ち続けているピーター。こども心って、素質も大切かもしれないけどやはり意思が重要なのかもしれない。

きっとそれは裕翔くんにも通じる。

小さい頃から「こども心を忘れない大人になりたい」、今も「こども心を忘れない大人でいたい」と発言している。

ましてや裕翔くんは大人にならざるを得ない世界で生きているのだ。その世界でこども心を忘れない意思を持っているのだからすごい。ごくありふれた世界(ウェンディがいるような世界)でも当たり前のようにこども心を忘れながら大人になっていくのに。

感覚的な「なんとなく」がこどもの思考のベースにあるとしても、いつかその「なんとなく」をロジカルに考え始めるときがくる。そんなときにロジック(≒ネバーランドの秘密)を知りながらこども心をそのまま持っていようとする意思こそが、こども心をその人の中にとどめさせてくれるんだろうな。

ピーターも裕翔くんも、こども心を自分の意思で持ち続けようとする限り、その心の中にはずっと少年性があるのだ。

 

だからこそ、裕翔くんの演じるピーターパンはあんなに魅力的なのだろう。そしてこの作品におけるピーターパンは、裕翔くんが演じるからこそのピーターパンだなと感じる。ぴょこぴょこっとしたかわいらしさも、風のように軽くて鋭い俊敏性も、胸が張り裂けそうな切なさも、すべて自然で、"裕翔くんらしい"と思った。裕翔くんがピーターパンを演じたという事実に、ウェンディ&ピーターパンの世界に裕翔くんがいたという事実に、心から感謝だ。


本当に本当にお疲れ様でした。

素敵な舞台をありがとうございました。